岐阜城【名城:No.39】

中部地方

白川郷 の続きとなります。
白川郷から高速バスに乗り約50分掛けて「高山駅」に到着。
その後、特急で「岐阜駅」に着き、降りてすぐにバスに乗って約15分で「岐阜公園」に到着。
さらにロープウェイを使い山頂に行き、そこから約15分掛けて歩くと・・・。

岐阜城に着きました!今回は復元された天守の近くまで行きました。

簡単な歴史解説

鎌倉時代~室町時代前期(かつての岐阜城)

二階堂行政という人物が金華山にて1201年に砦を造ったのが始まりとされています。
建造後は二階堂行政の娘婿にあたる佐藤朝光が支配し、その後も
佐藤朝光の子にあたる伊賀光宗が支配します。
そして、伊賀光宗の弟にあたる稲葉光資が支配したことで
「金華山」から「稲葉山」という名称に変わりました。
それからも支配者が移り変わり再び二階堂氏が支配するようになりますが、
二階堂行藤が死去した後は廃棄されました。
その後、15世紀中頃に美濃の守護代であった斎藤利永が砦を修復し拠点としました。

室町時代後期(稲葉山を巡る争いと改名)

1525年、斎藤氏の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして
砦を乗っ取り支配するようになります。
その後、長井新左衛門尉が死去すると子にあたる長井新九郎規秀(斎藤利政)が跡を継ぎ
1539年に稲葉山山頂に城(稲葉山城)を築城し拠点とします。

1541年、斎藤利政は守護であった土岐頼芸を追放して美濃国を支配し
1554年に嫡子の斎藤義龍に家督を譲り「斎藤道三」と名乗るようになりました。
ですが、斎藤道三と斎藤義龍の間で対立が起きており、家督相続後は激化したことで
1556年に長良川の戦いが勃発し、斎藤道三は敗北し討ち取られました。

1561年、斎藤義龍が急死したことで子にあたる斎藤龍興が家督を相続します。
同年には織田信長が侵攻してきますが、これを撃退しています。
ですが、1564年に斎藤氏の家臣だった竹中重治と安藤守就が謀反を起こし
稲葉城が乗っ取られてしまい、斎藤龍興は鵜飼山城に逃げます。
半年後、竹中重治と安藤守就が稲葉山城を放棄したことで斎藤龍興が再び支配しますが、
1567年に織田信長が再度侵攻した際は敗北し、斎藤龍興は伊勢長島まで逃亡しました。

その後は織田信長が支配するようになり、同年に本拠地であった小牧山城から移転し
稲葉山城の名称を「岐阜城」と改名しました。

(この頃から織田信長は「天下布武」の朱印を用い、天下統一を目指しました。)

安土桃山時代(支配者の移り変わりと廃城)

1576年、織田信長は嫡子である織田信忠を城主として
織田家の家督と美濃国・尾張国を譲りました。
その際、織田信忠によって岐阜城の改修・整備が行われました。
1582年の本能寺の変によって織田信長・織田信忠の2人死去すると、
留守居であった斎藤利堯が掌握しますが、山崎の合戦にて明智光秀が
羽柴秀吉に敗れると、羽柴派であった織田信孝に服従します。

その後、清須会議を経て織田信孝が岐阜城の城主となり、織田信忠の嫡子にあたる
三法師の後見になりましたが、挙兵したことで1583年に
羽柴秀吉・丹羽長秀・池田元助たち迫られて講和条約を結び、三法師を引き渡しました。
同年に滝川一益と共に再度挙兵しますが、織田信勝によって岐阜城を包囲されたことで降伏し
織田信孝は切腹し池田元助が支配するようになりました。

1584年に起きた小牧・長久手の戦いの際に池田元助は父・池田恒興と共に討死し、
翌年の1585年に池田恒興の次男にあたる池田輝政が城主となりました。
その後、1591年に池田輝政は転封となり代わりに豊臣秀勝が城主となりましたが、
翌年の1592年に死去し織田秀信(三法師)が城主となりました。

1600年に起きた関ヶ原の合戦では、織田秀信は石田三成の挙兵に呼応し西軍につきます。
前哨戦となった岐阜城の戦いにおいて織田秀信は岐阜城に籠って戦いますが、
東軍についていた福島正則や池田輝政たちに攻められて落城しました。
翌年の1601年、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は奥平信昌に命じて
平野部に加納城を築城させ、それに伴い岐阜城は廃城となりました。

明治時代~現代まで

廃城となり放置されていましたが、1910年に模擬天守が再建されました。
1943年に早朝に発生した失火によって焼失してしまいましたが、
1956年に再び建てられ、1975年には隅櫓(岐阜城資料館)が完成しました。
そして、2011年には「岐阜城跡」として国の史跡に指定されました。
現在では登山のほかにロープウェイを使って登城することができ、ロープウェイ山頂には
展望台やリス村があり、多くの観光客で賑わっています。
また、山麓には織田信長の居館跡があり、1984年から行われている発掘調査から
発見されたデータを基に礎石などが復元されており見学することができます。

他の写真

復元された「天守」の入口部分です。現在は、岐阜城の歴史や資料が展示されています。
なお、天守台の近くには当時の石垣が残っていました。

「天守」に入り展示物を見つつ最上階に行くと、岐阜市内を見渡すことができました。
なお、目の前に流れている川が長良川です。

「天守」を出た後、近くにあった「隅櫓(岐阜城資料館)」にも行きました。
規模は小さかったですが、なかなか見応えがありました。

その後は来た道を辿って帰りました。途中には「二ノ門跡」がありました。
近くには斎藤道三と織田信長が当時造ったの石垣がそれぞれありました。

「一ノ門跡」に来ました。右側にある巨石は、当時から残っているそうです。
なお、巨石を超えた先にも石垣があるそうですが、工事中で見に行けませんでした。

ロープウェイに乗って麓に降りる際に、鮮やかな建物が見えたので近くまで行きました。
この「三重塔」は明治時代に造られてそうです。

近くには小さな橋があり、渡ってみると「織田信長の居館跡」がありました。
発掘調査を経て、どこにどのような部屋があったか分かったそうです。

オマケの写真

2025年2月、家族とスノボー旅行の帰りに立ち寄りました。
その際、通らなかった道を辿っていくと「石垣跡」が見ました。

そして、近くには「本丸井戸」がありました。現在では枯渇してますが、
当時は貴重な水源として使われていました。

スタンプ設置場所と御城印販売場所

スタンプ設置場所:①岐阜城天守閣
         岐阜城資料館(隅櫓)
御城印販売場所:金華山ロープウェイ山麓売店

アクセス

交通機関:1.東京駅から名古屋駅まで「新幹線」で約1時間40分
     2.名古屋駅から岐阜駅まで、「電車」で約20分
     3.岐阜駅から「岐阜公園・岐阜城(バス停)」まで、「バス」で約15分
     4.「岐阜公園・岐阜城(バス停)」からロープウェイ山麓駅まで、「徒歩」で約5分
     5.ロープウェイ山麓駅から山頂駅まで、「ロープウェイ」で約5分
     6.ロープウェイ山頂駅から現地まで、「徒歩」で約15分
     
     ※登山口もあり、約40分で山頂まで行くことができます。

終わりに

あれから、夏に初めて行ってから約3年ほど経ちました。
当時は、まさかの悪天候になってしまい、まともに城を散策することができませんでした。
また、途中で大雨にあってしまい、写真撮影も大変でした。

それにより、麓に降りる頃にはすでに夕方になってしまい、
山麓付近にあった織田信長の居館跡の散策がほとんどできませんでした。

そして、今年の2月にも行きましたが、この時には工事が行われており、
一部入れない場所があったので、散策もそこまでしませんでした。

あと、岐阜駅にDQウォークのお土産がありました。その記事は明日に投稿します。
どこかのタイミングで岐阜城に訪れたいと思います。
その時は、織田信長の居館跡などをもっと撮影したいと思います。

・・・さて、今日はここまで。次回も、お楽しみに!

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