2022年5月上旬、緑が綺麗に生い茂る季節。
特急列車を使って約2時間で「甲府駅」に到着。
「甲府駅」からバスに乗り約15分掛けて「積翠寺(バス停)」に到着。
そこから約15分掛けて歩くと・・・。

要害山城に着きました!
今回は「登城口」から少し入ったところで撮影しました。
簡単な歴史解説
室町時代後期(甲斐武田氏による築城)
1519年に、武田信虎が本拠地を石和にあった川田館から甲府へ移します。
その際に躑躅ヶ崎館を建設し、館の詰城として翌年の1520年に築城しました。
今川氏の福島正成が甲斐国に侵攻し甲府へ迫ってきた際に武田信虎は
正室の大井夫人をこの城に避難させており、その時に大井夫人は
嫡男である武田晴信を出産したといわれています。
安土桃山時代(甲斐武田氏の滅亡と改築・廃城)
躑躅ヶ崎館の詰城として機能していましたが、1582年に甲斐武田氏が滅亡すると
代わりに徳川氏が支配するようになりました。
小田原征伐後、徳川氏が関東に移封されると代わりに豊臣系大名が入城し
豊臣氏家臣である加藤光泰によって修築されました。
その後、1600年に起きた関ヶ原の合戦により甲斐国は再び徳川氏が支配するようになり、
甲府城が政治的中心地となったことで詰城として機能しなくなり、廃城となりました。
現代まで
廃城となったものの、本丸に至る通路や虎口・曲輪・堀切・見張り台などの
遺構や要所を固める石垣がほぼ完全に残っていまいsた。
その為、甲斐武田氏の築いた城郭として、また中世豪族の居住形態を示すものとして
極めて重要であるとして、1991年に「要害山」という名称で国の史跡に指定されました。
現在では、登山口に説明版が設置され曲輪・土塁・門跡などには案内板が設置されており、
当時の遺構を見学することができます。
他の写真

先ほどの場所を登っていくと、このような登山道が続いてました。
結構登りましたが、撮影した場所はまだ下のほうで、看板が見える場所まで意外と遠かったです。

上の方まで歩くと、やっと看板が見えてきました。
写真では分かりにくいですが、目の前のくぼみが「竪堀跡」です。

さらに奥へ進むと、「門跡」にたどり着きました。
この場所には、石垣跡や礎石が残っており、築城当時は立派だったことが分かります。

「門跡」を進んだ先の道中で「不動曲輪」と呼ばれる曲輪がありました。
「武田不動尊」と呼ばれる像があり、江戸時代後期に建てられたそうです。

さらに進んでいくと「門跡」にたどり着きました。
主郭を守っているのもあり、先ほどの「門跡」よりも強固に造られていたことが分かります。

「門跡」をくぐり抜け「主郭跡」に着きました。この場所のみ広く開けています。
写真にはありませんが、周りを「土塁」で囲んでおり重要な場所だったことが分かります。

少し先に進むと「主郭部」と書かれた看板が建っており、その先には
庭園として利用されていたとされる石がありました。
スタンプ設置場所と御城印販売場所
スタンプ設置場所:甲府市藤村記念館 ※開館時のみ押すことが出来ます。
御城印販売場所:甲府市観光案内所 ※受付にて購入出来ます。
アクセス
交通機関:1.東京駅から甲府駅まで、「特急列車」で約2時間
2.甲府駅から積翠寺(バス停)まで、「バス」で約15分
3.積翠寺(バス停)から現地まで、「徒歩」で約15分
終わりに
あれから、約3年ほど経ちました。
この時は、朝方にちょっと用事があったので、昼前の登城となりました。
この山城は、基本的に1本道だったので迷わずに行くことができました。
ただ、景色を見ようと思いましたが、一部分しか開けておらず
しかも拡大しないと綺麗に撮れなかったので、今回は載せるのを止めました。
あと、下山後に時間があったので、他の場所にも行ってきました。
それについては、来週の土曜日に書こうと思います。
どこかのタイミングで再度行こうと思います。
その時は、「井戸跡」や主郭跡の先にある「堀切跡」を見ようと思います。
・・・さて、今日はここまで。次回も、お楽しみに!
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