2022年4月上旬、桜が綺麗に咲く季節。
電車と特急列車を使って約2時間20分、「新府駅」に到着。
そこから約15分掛けて歩くと・・・。

新府城に着きました!
今回は「本丸跡」にある神社まで行ける階段に来ました。
簡単な歴史解説
戦国時代(築城に至るまで)
甲斐国内を統一した武田信虎が、現在の武田神社がある場所に躑躅ヶ崎館を築いたことで、
躑躅ヶ崎館を中心に城下町が形成されました。
その後、武田信玄によって甲斐武田氏は領国拡大と同時に城下町が整備されていき
躑躅ヶ崎館は政庁となって城下町繁栄を極めます。
ですが、武田勝頼の時代になると城下町の拡大が限界を迎えており、
信濃・西上野・駿河へと領国拡大したことで統治が難しくなりました。
このことから、武田勝頼は領国の中枢に位置している韮崎に移転し、
韮崎にある七里岩の上に城を築くことを考え、1581年に開始されました。
安土桃山時代・前半(廃城と武田氏の滅亡)
築城に伴い、武田勝頼は本拠地であった躑躅ヶ崎館から移転しました。
ところが、1582年に織田・徳川連合による甲州征伐により武田勝頼は逃亡せざるを得なくなり、
家臣の小山田信茂が守る岩殿城へ移るため、築城途中の新府城に火をかけて廃城としました。
その後、武田勝頼は小山田信茂による謀反にあい、天目山にて自害したことで
甲斐武田氏は滅亡となりました。
安土桃山時代・後半(天正壬午の乱とその後)
1582年に起きた本能寺の変により、甲斐・信濃の統治をめぐる天正壬午の乱が勃発します。
その際、徳川家康は新府城に、北条氏は若神子城にそれぞれ本陣を置いて争います。
約4ヶ月の戦いを経て両家の間に同盟が成立し、北条氏が甲斐から撤退します。
これにより、徳川氏が甲斐を支配し躑躅ヶ崎館を本拠地としました。
躑躅ヶ崎館を本拠地にした後も新府城は使われましたが、
1590年の小田原征伐によって北条氏が滅亡したことで徳川氏は関東へ移封し、
代わりに羽柴秀勝が甲斐を支配するようになり、それに伴い新府城は廃城となりました。
(なお、この時に甲府城が築城され、近世以降は甲斐の政治的中心地になりました。)
現代まで
甲府城が甲斐の政治的中心地になったことで廃城となったままでしたが、
1973年に「新府城跡」として国の史跡指定になりました。
その後、1986年には韮崎市が史跡の管理団体となり、
1998年に環境整備を伴う発掘調査が行われました。
2005年には史跡整備が行われ、現在は本丸跡に神社などが造られています。
他の写真

階段を登っていくと神社がある「本丸跡」に着きました。桜が綺麗に咲いてました。
なお、神社以外にも武田勝頼も含め、甲斐武田氏の重臣たちの墓もありました。

「本丸跡」を少し歩くと「二の丸跡」に着きました。端のほうは土塁がありました。

整備されていた道路に沿って歩くと「大手門跡」や「馬出し跡」がある曲輪に着きました。
こちらは綺麗に整備されていて、晴れていれば富士山も綺麗に見ることができます。

来た道を戻り「二の丸跡」を抜けて歩いていくと「井戸跡」がありました。
写真では分かりにくいですが、結構な深かったです。

「井戸跡」から少し進むと「二之門跡」に着きました。
現在では、柱があったとされる場所に礎石があります。

「二之門跡」を通り抜けると「西堀跡」がある場所に来ました。
写真では分かりにくいですが、堀には少しだけ水がありました。
スタンプ設置場所と御城印販売場所
スタンプ設置場所:韮崎市民俗資料館 ※開館時のみ押すことが出来ます。
御城印販売場所:韮崎市民俗資料館 ※受付にて購入出来ます。
アクセス
交通機関:1.東京駅から新府駅まで、「在来線」と「特急列車」で約2時間20分
2.新府駅から現地まで、「徒歩」で約15分
終わりに
あれから、約3年ほど経ちました。
この時は、午前中は天気が悪いという情報があったので、午後から行きました。
一応、晴れてはいましたが、着いた頃には夕方になってしまいました。
その為、「大手門跡」がある曲輪の部分を余り散策していません。
しかも、当時はその先に「馬出し跡」があるとは知りませんでした。
どこかのタイミングで再度行こうと思います。
その時は、「大手門跡」や「馬出し跡」がある曲輪を中心に散策しようと思います。
・・・さて、今日はここまで。次回も、お楽しみに!
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